好き勝手に・げーあにん?

ファミコンと同い年の社会人ヌルオタの日記

『時をかける少女』を見て死にたくなる人はほかの学園ものを見ても死にたくなるのか?

死にたくなるというより、見て鬱になったと感じる人が結構多いらしいという話し。私はアニメで鬱になったことはないけど、それなりに感情移入しすぎる事があるから、気持ちはわかるかも。鬱にはならなくても、少なくとも恋はするな。
誤解の無い言い方をしとくと、上記の『恋』は、「その人のことで頭がいっぱいで他の事が手に使かない」的な状況ね。「そんなのが『恋』の定義かよ。まだまだお子ちゃまだな」みたいな反論は許容範囲内です。『恋』じゃなくて『愛』かな。まぁ、いいや。本題。

死にたくなる作品として、『耳をすませば』が筆頭で、その次に『時をかける少女』があるようだが、同じ学園を舞台にして人気のあった『涼宮ハルヒの憂鬱』も『スクールランブル』では、こういった話は聞かない。いったい、どこに線引きがあるのだろうか?

感情移入しやすい自覚のある私には、そんな線引き簡単ですよ。いや、同じように入りやすい人でも、それぞれで違うかも知れんけど。

その線引きは「どこにリアリティを感じるか」だと思う。

耳すまの場合は、ファンタジー無しの日常世界で、そんな作品、他にもいくらでもあると言われそうだけど、他の作品よりも感情移入しやすい要素がある。やりたい事があってもそれを実現できないと思っている雫を自分に重ねて、やりたい事も進路もハッキリと決めている聖司を、自分の理想と重ねてしまう。
で、理想と同じ趣味で繋がったのがキッカケで互いに惹かれていくのを見てると、見てる側もあっちの世界に引張られていきやすいんですよ。何を隠そう、私はジブリ作品の中で一番好きなの『耳をすませば』ですからね。体験談&自己分析。

しかも『耳をすませば』はダメだけど、『時をかける少女』はオッケーという人も結構見かけるから、事態は更に複雑。

耳すまで表現される青春と、時かけで描かれる青春のどちらに惹かれるかという差、というのが一番大きいんだとは思うんだけど、「どこにリアリティを感じるか」という点に絞っていえば、『タイムリープ』という非現実があるストーリーで、リアルとバーチャルを切り離してみているか、見ていないかの違いなんじゃないかと思う。『タイムリープ』のおかげで客観視できてる人は、感情移入しにくい。「タイムリープした先も現実」だという認識で見てる人は感情移入しやすいんじゃないかと。

青春モノに弱いという人は、青春という要素が、フィクションにリアリティを最も感じやすくさせる要素だからなんじゃないかと。

耳すまは大丈夫だけど、時かけで鬱になる人は、たぶん、高瀬の存在が大きいんだと思う。

ハルヒ鬱というのはあったそうだが、これはマイナーそうだ。

ハルヒ鬱になる人は相当理想が高いんじゃないかなぁ。未来人、宇宙人、超能力者がいる世界に入るのはレベル高いよ。恐らく、周りの人とは価値観があわなくても謎の部活を立ち上げるような行動力を持つ人への理想や憧れが強いんじゃないかと思う。

私が鬱に近い状態まで行ったアニメといえば、やっぱり『無限のリヴァイアス』だなぁ。あのアニメには理想が無くて、力の無い自分を事あるごとに実感していく主人公に感情移入しちゃうと、負の無限スパイラルなんだよな。弟にはボコられるし、親友には撃たれるしで。青春モノで鬱になるタイプの人は、眩しいものに弱い傾向があると思うので、ひたすら暗いリヴァは大丈夫だったりするんだろうか。


つかね。良い作品には、それなりに感情移入する要素があるはずなので、入りすぎた結果が鬱な気分になるという人もいるでしょうよ。「鬱だ死のう」的な台詞をいうのがどの程度のレベルの鬱なのかも個人差ありそうだけど。私は鬱の入り口*1も軽く体験しちゃってるのでなんともいい難いんだけど。

あー、自分で読み返してて思ったけど、これじゃ『鬱になりやすい作品の特徴』じゃなくて『感情移入しやすい作品の特徴』になってるな。アニメで鬱になった事の無い人間には、この辺が限界か。

『鬱』に生きずに『愛』に生きようぜ! という無理やりな締めで終わり。

*1:鬱のような精神状態が原因で体調が悪いのが続いて、こりゃヤバイと思って病院に行った程度。現実の問題で、アニメが原因では無い